2025年6月16日月曜日

それでも私は描いている

さすがにもう人物画は無理ですが、他のものならなんとかなりそうです。眼は一応落ち着いてきておりますが、それでも根本的にどうにかなったとかの話は聞きません。この部分の疾患は、しかし若い人にもあるようですので、私の場合はもう老人なので、それを考えるとちょっと気の毒だなと思います。



この部分の手術をすると白内障の手術を同時にすることに概ねなっているようなので私もそれに同意しましたが、どうもそっちの感じが今ひとつなのかなと思っています。すんなり片付いた人よりちょっと怪しげです。それでも、あともうちょっと落ち着いてくれば諸々我慢のうちかなと思っています。

2025年6月13日金曜日

夜中の救急車

夜中に目の前に救急車が止まっていた。隣か向かいか、その並びか。その時私は一旦眠って目覚めてしばらく作業をしていた。

当家も兄や母のことで何度救急車を呼んだか。その度に自分が同乗して病院まで付き合った。今度はそろそろ自分の年齢。近所の人だって、皆いつ何があってもおかしくない。 でも自分には付き添う者は居ない。

ちょっと飲んだりしていい気になって忘れかけたりもするけど、こういうことがあるとね。だから自分に突然なにがあっても良いようにして置こうとは思うが、どこから何から手をつけて良いのか知れない。

投資をしているから、多少の資産はある。これを取り崩しながらも減らないか減っても10年持てばよいとの計画だった。それを残したままなんてのが絶対に嫌な訳です。どころか、折角住宅ローンが終わって以後はむしろ増える可能性の方が強い。それを使えないままなんてこんな悔しいことはない。

まあね、計画してもこういうのは上手くいかない。この頃は本気で考えるのです。絶対にここだけは見ておきたい、やっておきたい、それはなんだったか。

でもそれだって徐々に面倒になってくる。いつも最後は居酒屋でぼんやりになってしまう。そこが幸せならもうそれでいいじゃないかと思い始めた。

なんてささやかなんだろう。忍ぶ忍ばず無縁坂…。

2025年6月8日日曜日

自分にもいつ何があるか知れない

ミスター長嶋さんが脳梗塞で倒れた年齢を考えると、そうのほほんとはしていられないというのが正直なところです。終活という程ではないけし、世の中には終活を考える人とそれをなぜか貶すタイプの人もあって、そんなの自由でよろしと私は思うが、そのことはさておき、いくらなんでもこのままでは逝けないと感じる部分があったらそれを解決するべく行動しても悪くなないでしょう。

でも、単なるおひとり様じゃなくて、そこで家系が途切れてしまう人はちょっとしんどい。かなりなことをしなければならないです。仏壇やお墓も子があれば引き継げるけど、最後のものはどうにかしなければならない。突然なにかあったら、それはもうしょうがないのだけど。

大抵の親って、面倒なことをゴッソリ残してあの世へ行く。それを代々続けているのです。でも最後だけはみーんな引き受けねばならない。養子でもとれば別ですがね。

この二年程は大方異常が現れた眼にばかり神経が行っていて、他のことはあまり考える余裕がなかったし、仕事もやり続けているのでそれをこなしながらだけど、そればっかりだと自分の楽しみもない。もっとやりたかったことがあるだろうと思うのですが、それをするにも段々と気が面倒になってくるのですね。

最後は本当に金もかかるし時間も体力もかかる。母を介護している時にはまだピンと来なかったけど、それから早や12年経っている。その間にできたことって何だったかなと考えると、ろくなことができないままです。

時間ばかり過ぎて、いったいなんだろうなと首を傾げています。 

2025年6月7日土曜日

どうやら眼の不具合は残りそうだ

元からの症状はしょうがない。手術はそれを改善できるものではなくて悪化を止めるためのものでしたから、その部分は充分に了承している訳です。しかしながら、不思議にも、古い蛍光灯のような瞬きが現れて、それは手術一週間後に医師に診せるために瞳孔を開いて以後に気付いたもので最初は奇妙なものでした。

何に例えたらいいのか、とにかく古い蛍光灯ですね、古くなると蛍光灯は皆ああなります。何度も瞬いて、そのうち暗くなって、寿命なのですが、あの古い蛍光灯に照らされた世間を眺めていると言えば良いでしょうか。

2025年6月1日日曜日

6月1日のあの日は

ずっと大昔の6月1日。自分の以後の人生を決めてしまったかも知れないようなことがありました。そのことがずっと尾を引いて、結局あの時のことが重荷になったかなと、ちょっと思い出します。

でも、もうさすがにこれだけ時間が経つと、今では日々気にすることと言えば、ここから先どれだけ普通に生きて行けるか、そんなことくらいしかありません。段々物事の記憶は薄れて行って、いや記憶は鮮明だけど、でもそれがもう今の自分には何のウエイトも持たない。時間というのはそういうもので、それが誰しも普通なんだろうなと思います。

ひとり者というのは、家族と居るのとは違って日常ごとがあまりないのです。家族や人と関わればそれだけ色々考えなきゃならないことがあるし嬉しいことも腹の立つこともある。でも、ひとりは比較的それが少ない。だから、昔のことをいつまでも覚えている。思い出したりする。

そういうことがあって、私も結構昔を引きずっていましたが、それももうそろそろどうでも良くなりつつあります。

段々色んな事が薄くなってくる。それで良いのだろうなと勝手に納得しているのですね。